覚念寺の歴史

畠谷山晴岸院覚念寺は関東二十四輩二十三番の旧跡であり、宗祖親鸞聖人の直弟、唯信房の開基である。

唯信房の俗姓は、人皇五十九代宇多天皇の後胤敦実親王の末孫佐々木四郎高綱の三男で左衛門尉源高重といった。

1218年、高重33歳の時、世の無常を観じ出離の志をいだいて稲田の草庵(笠間の西念寺)に聖人を訪ね、一向専修の法を聞信して弟子となり、法名を唯信とたまわった。その後、那珂郡小瀬の畠谷(旧緒川村、現常陸大宮市)に一宇を建て、覚念寺と名付けた。

11代順覚の時、1576年8月4日の佐竹氏合戦の際、その兵火にかかり建物や什器などを全焼。1595年、13代順良の時に再建されたが、1600年10月、藩命によって多賀郡金沢村(現在地)に移った。

14代順永の時、藩主徳川光圀による領内巡視の際はたびたび当寺で休息され、白銀や什器などを下された。その折のご諚の趣など近臣よりの書状があったが、その後の火災で焼失してしまった。

1690年に除地(免税地)2石6斗9升を賜った。

1741年、16代唯縝の時に大谷派から高田派に転派した。

1835年7月8日、火災により本堂、庫裡等を焼失し、1837年に再建された。しかし、1843年12月13日の隣家の火災によって本堂、庫裡、山門、鐘楼などの類焼の難に遭った。1850年11月、20代唯教の時に再建されたが、幕末の1864年9月17日、水戸藩のいわゆる「おさわぎ」の際、書生党の拠点となったため兵火を受け、またも焼失した。

1883年12月、23代唯光の時に門徒の上妻健七が棟梁となり、現本堂と山門を再建した。

1906年、24代唯定の時に門徒の鴨志田武夫の勧進により太子堂を建立。1922年10月3日の東本願寺門主の関東旧跡巡行の際には当寺を参向された。

25代唯彰のときには、1971年8月に門徒黒沢清が棟梁となり、庫裡を新築し、1976年には本堂屋根の大修理と参道コンクリート舗装を行った。

26代唯昭になり、1983年に阿弥陀如来宮殿、須弥壇、前卓を新調し、2002年には御開山の厨子も新しくした。また、2014年には、東日本大震災の際に傾いた山門も新築している。

(右の写真は旧山門)